桐生 横振り刺繍 スカジャン

桐生在住の横振り刺繍作家・大澤紀代美氏が出演されました。 1957年頃にスカジャンを刺繍する現場に衝撃を受けて、 横振り刺繍を志しました。 今回の放送は、スカジャンが桐生で作られていたこと、 横振り刺繍が桐生発祥だったことなど、 スカジャン刺繍で一時代を築いた横振り刺繍。 桐生発祥の刺繍技術をご紹介。 アトリエきよみ/伝統工芸士・黄綬褒章 大澤紀代美 kiyomi osawa ビンテージスカジャンのルーツを探す 「その昔、桐生でスカジャンが作られていた。」 スカジャンコレクターやアパレル関係者、一部の桐生の人たちの間では常識となっている。では、本当に戦後の桐生でスカジャンが作られていたのだろうか?そのことを、桐生の人たちはほとんど知らない。伝統産業である織物の記録はたくさんあるが、スカジャンの記録はほとんどない。たしかに、「スカジャン」というネーミングのルーツが「スカマン」(横須賀マンボ)に由来しており、1961年以降の横須賀で生まれている。それ以前の記録にないのは当然といえる。 そのかわり、「スーベニヤ」という記述はわずかだが、実際に残っている。 もともとアメリカ軍のなかでの名称は「スカジャン」ではなく、「スーベニアジャケット」である。ジャケット以外にも、スーベニア(土産)商品として生産されていたものは多岐にわたる。パッチ(ワッペン)、ハンカチ、シャツ、ブラウス、クッションカバー、ネクタイ、ガウン・・・。 2017年には、当時作られていたスカジャンが桐生で発見されている。いわゆるデッドストックである。2018年には、大量の型紙とデッドストックが発見されている。型紙とは、横振り刺繍をする際の下絵を生地にプリントするための型といえば分かりやすいだろうか。 70年以上の時を超えて、これからも古くて新しい出会いがあることだろう。 太平洋戦争末期、アメリカ軍の攻撃目標リストに入っていながら、空襲をほとんど受けなかった群馬県桐生市。敗戦後のいわゆる占領期である1945年から1950年代を中心に、資料と証言を交えて、本当の真実を書き残していく。   戦後の混乱期に、必死に生きるために「スカジャン/スーベニアジャケット」を生み出し、自ら販売に乗り出していった桐生の職人たち。  彼らはなぜ、あの時代にあれほど豪華絢爛な洋服を生み出すことが出来たのか?  どうしてこれほどまでに世界中のコレクターから愛され続けているのか?  当時からの製法でスカジャンを作り続ける桐生で唯一の縫製工場の灯が消える前に、どうしてもそのスカジャンのルーツを確かめたかった。デザイナーでもなく、パターンナーでもなく、ごく普通のおっちゃん、おばちゃんたちが生み出した日本発祥の洋服「スカジャン」。太平洋戦争による敗戦で多くの大切なものを失った。しかし、敗戦という苦い経験があったからこそ、スカジャンが誕生した。いまこの一瞬も、あのときから地続きでつながっている。織物、リブ、染色から横振り刺繍、縫製に至るまで、職人にしかわからない世界がある。そのひとつひとつを紐解き、次の世代に残していくことが、先人たちへのお土産(スーベニア)になると信じている。  さあ、ビンテージスカジャンのルーツを探す旅に出かけよう。   現在、スカジャン生産発祥の地としての桐生を知る資料はほとんど存在しない。ビンテージスカジャンの定説として、横須賀市やメーカーの話は散見されるが、いまでも当時の製法で作っている職人が桐生にいることはあまり知られていない。 職人の立場から見たスカジャンとは、どういうものだったのか?これからも戦後の織物史など収集可能な資料をつなぎ合わせ、当時を知る人たちへの取材を続けていく。  「おばあちゃんが横振り刺繍をやっていた」  「うちの近くにスカジャンを作っている工場があった」  あなたが知っている情報もお寄せください。戦後のスカジャン製作時の写真や工場の様子など些細なことでも構いません。あなたの先祖が桐生のスカジャン誕生に関わっていたかもしれない。私たちは、その歴史を残せる最後の世代なのです。桐生ジャンパー研究所では、あなたの情報をお待ちしております。 —————————- あなたは、「横振り(ヨコブリ)」という名前を聞いたことがあるだろうか。縫製で使用する本縫いミシンと違い、押さえや送り歯がなく、文字通り、針が左右に動く刺繍ミシンで縫われた刺繍のことである。多くの人々は横振りミシンや手振りミシンと言うが、これは通称で、正式には千鳥ミシンという。当時はジグザグミシンとも言われていた。(以下、分かりやすくするため、通称の「横振りミシン」を使用する。)シンプルな構造だが、刺繍する際には生地を柄に合わせて動かさねばならない。さらにレバーを右足の膝で調節することで、振り幅を自在に操る。ビンテージスカジャンといえば、横振りミシンで縫われた刺繍が最大の特徴である。 現在主流のコンピューターミシンは、平坦できっちりと綺麗に仕上がり、複数縫っても同じ刺繍ができるが、横振りミシンでは一枚ずつ職人が縫う。ゆえに、同じ柄でも多少のバラつきが出るし、同じ柄を違う職人が縫えばさらに個性的なものが仕上がることもある。桐生では1970年代頃から、コンピューター制御の多頭式ジャガードミシンが主流となっていく。横振りからジャガードへ。この変化もドラスティックであったが、戦前の手刺繍から横振りミシンへの転換も生産性向上に大いに寄与した。 時計の針を大正時代に戻そう。なぜか。この時代にミシンの輸入が本格的に始まったからだ。1910年代に日本国内の衣料品製造業の構成はおおかた形成されている。軍服や足袋、靴、鞄などをはじめ、シャツ、メリヤス下着、外套(コート)などの生産が盛んになっていく。それらの用途に合わせて、実に多様な種類のミシンが開発されたのだ。主要な港のある横浜や神戸などに出店していたアメリカのシンガー社のミシンは、独自の販売方法によって、日本国内のテーラーや中小工場、さらには家庭にまで浸透していくことになる。 桐生でもミシン問屋を通じて、多くの横振りミシンが導入されている。機械・電気修理の職人も多かったから、ミシンの改造も頻繁に行われた。当時の刺繍工場では、交互に向かい合う状態で10台ほどの横振りミシンを設置し、すべてを同時に動かすために、1台のモーターを動力とし、ミシンの上部から各ミシンのプーリーに革ベルトをかけて稼動させた。1台動かすと、10台すべてが動くということになる。元々和装関連の刺繍が多かった桐生地区では、大きい柄で振り幅を必要としたため、シンガーの横振りミシンを改造したミシンが主流になっていく。後年、隣の栃木県足利市に設立されたミシン会社のSTAGERという横振りミシンは、桐生人の設計であったという逸話も残っている。 刺繍といえば、伝統的に手刺繍が用いられてきたが、横振りミシンが普及するにつれ、生産性が飛躍的にあがることになる。多品種少量生産で、分業制にも磨きがかかり、半襟、袱紗、鏡台掛けから仏具、和装品などへの刺繍が流行となる。もともと織物や撚糸、染色などが盛んな地域だった桐生は、ミシンの普及により繊維製品のすべての工程をこなすことができる地域として全国的に知られた存在となっていく。こうして大正時代末期に桐生でミシン刺繍がはじまった。 その当時、国産ミシン事情はどうだったのだろうか。東京のパイン裁縫機械製作所(現・蛇の目ミシン工業株式会社)や名古屋の安井ミシン兄弟商会(現・ブラザー工業株式会社)などが台頭しはじめていたが、主に修理などが中心の事業で、パリ条約における特許障壁の影響もあり、おおよそ1930年代から活発になっていくことになる。ちょうどモボ・モガ(モダンボーイ・モダンガール)が登場したこの頃、日本社会の道徳観は急速に変化していた。この頃の日本は欧米諸国とは良好な関係を築いており、桐生は海外でも名を馳せた。絹・人絹織物の産地としてアメリカをはじめ、アジア、アフリカにまで進出していた。高等小学校を卒業した多くの女子が、横振り職人になるために桐生を目指した。時代は、日本を列強国の一国へ押し上げようとしていた。 太平洋戦争の激しさが増すなか、桐生のミシン刺繍技術は統制上の保護のもとにあった。さらに、空襲がほぼなかったため、ミシンなどの小規模の設備は残っていた。夫が戦死したある未亡人は、子供たちを育てるために嫁入り道具であったシンガーの足踏みミシンで、縫製の内職をはじめた。近所には、評判の横振り職人たちがいた。15~6歳の少女である。横浜や横須賀あたりに出来上がった製品を持ち込めば、飛ぶように売れたから、刺繍屋で内職を抱えることも多く、大忙しとなっていった。やがて、1949年には業者が結束して「桐生スーベニア(土産品)協会」が設立され、1959年時点では、輸出・内需向け含め、全国の横振り刺繍生産の85%を桐生で担っていた。ある町内では、隣組のうち3分の2が個人で刺繍業を営んでいたという。 ミシンが普及すると、織物産地イコール衣服産業の産地とは限らなくなり、日本全国どこでも縫製や刺繍が可能となっていた。織機などを設備するには大きな資本が必要だが、ミシンなら個人が少額でもはじめられたからである。こうして米軍基地周辺で横振りミシンを扱うネーム、パッチ刺繍業者が増えていった。ただし、技術者が最初から各地にいたかというとそれは疑問だ。その疑問への答えは、戦後の桐生市長の戦略にあった。当時の前原一治市長は、横振り刺繍の産地であり、多くの職人がいた桐生から、全国各地に技術者を派遣していたのだ。横振り刺繍の技術者を各地に派遣することで、ものづくり拠点としての桐生を宣伝することになる。物資が不足している時代とはいえ、レーヨンサテンの生地やリブジャージを生産しているし、縫製業者も充実しはじめた時期だから、全国への供給拠点にもなりうると考えた。横須賀をはじめ、佐世保、沖縄など全国に、桐生から横振り職人たちが移住した。わずかではあるが、いまでも刺繍を生業としている人々が各地で健在なのである。 日本が戦争をはじめた理由は、国内で資源がまかなえないという点が大きかった。だからというべきか、日本人は資源を加工することが得意である。あるいは、工夫してこれまで以上のものを生み出すことができる。絶え間ない努力で付加価値を最大化することに長けているのである。職人が扱う横振りミシンで縫われた刺繍製品は、70年以上たったいまでも、世界中の人々(ごく一部だけれども)を魅了している事実がある。 2017年には、当時作られていたスカジャンが桐生で発見されている。 いわゆるデッドストックである。 2018年には、大量の型紙とデッドストックが発見されている。 型紙とは、横振り刺繍をする際の下絵を 桐生の横振刺繍は打掛や振袖等の婚礼衣装が主流でしたが、昭和中期にはスカジャンの刺繍でその名が知られるようになりました。 現在でも、その高い技術が重宝され、様々な分野で桐生の横振刺繍が採用 … スカジャン - 横振り刺繍専門店―タカハシ刺繍 桐生は刺繍の街、昔からの先輩たちの伝統を守り50年常に新しい刺繍の物作りを日々努力しています。 群馬県知事認定第63号横振り刺繍伝統工芸士 第二次世界大戦後、刺繍産地「桐生(きりゅう)」から産まれた”横振り刺繍”その職人技は、現在も「繊維の街 桐生の地」で受け継がれています。  手で枠を動かし、足でミシンを駆動させ、膝で振り幅を決めていき、糸と感性で縫い込む刺繍は糸の絵画とも言われています。 その一線で今でも現役として活躍している大澤紀代美。刺繍絵が動き出すと言われるくらい躍動感のある刺繍は、芸術的感性と技術に数多くのデザイナーから師事されている。 (関連動画) (横振り刺繍・企画監修) (お問い合わせ・お見積もり依頼)

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